7 知者は惑はず
本日の講話では、「知者は惑わず」という論語をご紹介いたします。「知者は惑わず」という意味は、知恵を身につけている人は、正しい判断をすることができる、ということです。知恵とは、物事の筋道を立て、正しく処理していく心の働きです。したがって、知者を、頭が良くて知識を沢山持っている人と解釈するのは、正しいとは言えません。
知者は、十分な知識を持ち、それを活用して物事の道理を判断し処理していく能力を備えた人です。沢山の書物を読んで、知識を得ていたとしても、知恵を身につけていない人は、それを活かすことができません。知識を実社会の役に立つように活かすことのできる人が知者なのです。
この句の後に続く言葉があります。それは、「仁者は憂えず」と「勇者は懼れず」です。三つの句を一つにして、「知者は惑はず。仁者は憂えず。勇者は懼れず。」となります。それぞれの意味を紐解いてみましょう。
「知者は惑わず」とは、「知者はあれこれ迷うことがない。」という意味ですが、「知者」は、物事の本質を知り、道理をわきまえているので、判断が難しい場面に出くわしても、正しい判断ができるということです。このような人は、自らの人生において、進むべき道が分からなくなることはないでしょう。物事の道理を知っているので、どうしたらよいか判断に苦しむことがないということです。仕事や日常生活において難しい判断をしなければならない時に、「知者は惑わず」を思い出してください。逆に言うと、あれこれと判断に迷っている人は、もっと知恵を身につける必要があるということです。
次の句の「仁者は憂えず」ですが、「仁」とは、他人を思いやる気持ちと解釈できます。したがって、相手を思いやる心を持っている人は、私利私欲に流されることがなく、天命に安んじるので、嘆き悲しむことがないということです。
そもそも、仕事や日常生活における憂いというのは、自分の思いどおりにならなくてつらいと思う心の働きです。憂いには、「嘆き悲しむこと」と「心配」と二つの意味がありますが、ここでの意味は嘆き悲しことと解釈します。自分の思い通りにいかなくて悲しいと思う心の働きは、自分中心の考え方から発生することが多いのです。
一般的に「利己主義」とか「利他主義」と言ったりしますが、利己主義と利他主義、どちらが正しい考え方と言えば「利他主義」です。自分のことだけを考えて行動するとどうなるか。たとえば、駅の改札口で我先に通過しようとすると、多くの乗客がぶつかり合って誰も通ることができません。自分の利益だけを考えて行動すると、思い通りにいかないことが多々あります。利己主義の人は、いろいろなトラブルを引き起こし、嘆き悲しむことが多いのです。
利他主義の人は、自己の利益だけを考えないので、自然の摂理にかなった行動をするので、人間関係でのトラブルが少なくなります。だから、自分の置かれている地位や行動について、憂いを持つことが少なくなるのです。自分中心の考え方がムクムクと湧いてきたら、「仁者は憂えず」という言葉を思い出しましょう。
三つめの「勇者は懼れず」は、「勇気のある人は懼れるものがない」いう意味です。勇気とは、困難や危険を恐れない心です。勇気がある人と無い人の違いは、正しいことを実行できるか否かです。「義を見て為ざるは勇無きなり」という言葉があります。この意味は、「人として当然行うべきこと、正しいことと知りながらそれを実行しないのは、勇気がないからだ」という意味です。他者への配慮を欠かさず、どんな困難なことがあっても、本質を見極め、果敢に挑戦する心を持った人が真の勇者と言えるでしょう。ときどき、周りの人や自分への影響を考えずに、イノシシのように突き進む人がいますが、こうした人を勇者とは呼びません。
世の中には、正しいことと間違っていることが複雑に絡み合っています。何が正しくて何が間違っているのか、わからない時もあります。「良いこと」と「悪いこと」の判断をきちんとできる人になることが大事です。そして、「勇者」となるためには、正しいことを行える強い意志を持つことです。「真実かどうか」を見極め、正しいことを行う強い意志を持ったならば、何事も恐れるものはありません。
孔子が生きた時代は、今から2550年前です。当時、中国は春秋戦国時代で、争いが絶えなかった時代です。勝つか負けるか、取るか取られるか、まさに人心がすさんだ時代に生まれ、決して恵まれた人生を送ったわけでもありませんでした。だからこそ、論語には、人生のヒントになる言葉が今でも生きているのでしょう。
こうした孔子の言葉は、心に響くとともに、しっかりと刻んでおきたいものです。「知」・「仁」・「勇」の三つは、人間の根幹をなす重要な心の働きとして大切にしたいものです。